ソウル照覧

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【ダークソウル考察】五行思想で考察する、グウィンは本当に太陽の王だったのか?説~8~

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『最初の火の炉』で襲い掛かってきたグウィンの真意

ダークソウルにおける最後の闘いの舞台となるのが『最初の火の炉』。

 

その中枢部で不死を待ち構えているのが薪の王グウィンであり、

問答無用で激しい攻撃を浴びせてくる。

 

大王の力は全盛期の頃より遥かに衰えており、そこにいるのはもはや、燃料としての寿命が尽きかけている薪の王である。

 

だが傍から見れば、グウィンは火継ぎをしにきた

主人公の邪魔をしているようにしか見えない。

 

薪として燃え尽きるのは時間の問題なのだから、火継ぎをするならば、早く済ませた方が良いはずである。

 

一体なんのためにグウィンは主人公に襲い掛かってきたのか。

 

グウィンの狙いは不死(主人公)のソウルだった 

結論から言うと、文字通り火継ぎの邪魔をしているのである。もっと

正確に言うならば、目当ては主人公の集めた膨大な量のソウルである。

 

その根拠はダークソウル2のラスボス、デュナシャンドラである。

 

彼女は王妃として主人公に王の証を探すことを命じ、玉座を目指すように指示した。

 

しかしてその本当の狙いは、主人公の得た王の証を横取りし、

自らが玉座に昇ることであった。

 

ためにデュナシャンドラは王の証を持つ主人公に襲い掛かってくるのである。

 

この構図をダークソウル1のグウィン戦に当てはめると、

なぜ『最初の火の炉』でグウィンが主人公に挑んでくるのかも、色々と納得がいく。

 

まず第一に、主人公を倒せば、これまで集めた王のソウルが手に入る。

 

全ての試練を越えてきた主人公が持っている王のソウルは、グウィンがシースや公王たちに分け与えたソウルだけでなく、イザリスの魔女(混沌の苗床)やニトのものまである。

 

つまり主人公を倒すことで、以前のような太陽の光の王であった

頃の力を取り戻すどころか、さらなるパワーアップが果たせると言えよう。

 

不死(主人公)もまた、ここに来るまで討伐した敵から数多のソウルを獲得し、それを以て自分を強化してきた。それと同じ理屈である。

 

そして第二に、<火継ぎ>の準備として王のソウルを回収させたのは、自分が分けた与えた力を取り戻すと同時に、シース・イザリス・ニトを始末したかったからであろうと思われるからである。

 

主人公に王のソウルを集めるよう、フラムトに誘導させることに

よって、古竜の時代からの付き合いであり、グウィンの真実を知って

いたであろうシース・イザリス・ニトを始末させたのではないだろうか。

 

こうして<火継ぎ>について考えれば考えるほど、

グウィンにとって都合の良いシステムであったことが、段々と明らかになってきたのである。

 

これらの理由から、グウィンにとって主人公を倒すことは、諸神の力を得たより完璧な太陽の神として復活を果たすことに等しいと言えるだろう。

 

『最初の火の炉』にたどり着くまでの道筋で、グウィンの騎士が襲ってくるのも、主人公を始末しろと王命を受けていたのだろう。

 

騎士たちは試練を越え、仮にもグウィンに続く次代の薪の王である不死に対して、全く礼を尽くす気配がない。

 

世界のために人柱となろうという相手に対して、

普通ならば斬りかかろうなどとは思わないはずである。

 

おそらく主人公を討ち取った暁には、出世でも約束されていたか。

 

あるいは、主人公が集めた王のソウルを王の器に注いだあとは主人公を始末し、その体を薪として利用するつもりだったのかもしれない。

 

本人の意志など無くとも資格を持つ者を薪にできることは、ダークソウル3で判明済みである。

 

王の薪のテキストより

王が玉座に戻らぬならばその薪を戻せばよい

 

『最初の火の炉』に辿り着いた時点で、主人公はもう用済みだったのである。

 

しかしその目論見は完全に外れ、不死(主人公)はグウィンの前に姿を現した。

 

グウィンが『最初の火の炉』で襲い掛かってきたのは、燃え尽きる寸前になっても尚、王の座に執着するゆえの最期のあがきだったのである。

 

だが彼は人間を舐めすぎていた。グウィンと並び立つほどの力を持つ

諸神のソウルを平らげた主人公の力は、燃え尽きる寸前だったとはいえ、グウィンを凌駕する域に達していたのである。

 

彼は人間を甘く見過ぎたがゆえに、策に溺れ、『最初の火の炉』で燃え尽きるのだった。

 

~次回に続く~

 

※ダークソウルの解釈はこれが正解というものがなく、どう解釈するかは個人の自由です。あくまで一つの考察としてお楽しみください。